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ただそれだけの空間/HY-HOUSE
モダニズム建築は、その水平・垂直のラインにより構成される、合理的空間(禁欲的な四角い箱)である。
しかし、その構成が本当に合理的であるかどうかにはいささか疑問が残る。我々は四角い部屋が一番シンプルで機能的と考えて疑問の余地を持たないが、どうであろう。
人の体はこんなにも不定形であるし、自然界に形として存在するものに直線のものは少ない。必要なところが必要な分だけ出ていて、必要ない部分が引っ込んでいる方が十分に自然である。ましてや正方形なんてもってのほかである。
しかし、建築は「秩序」を構成する装置でもある。自然の生態系に沿った空間を、ただ晒しているだけのものは建築とは呼べない。無駄なものを排除した合理的な空間。これは、空間の無駄を言うのか、それとも人としての無駄を指すものなのか・・・?
そんなバランスの中で、ほんの少し垂直な壁を倒してみる。水平なスラブに角度を付けてみる。(これらは全て合理的な理由に基づくものであるが。)そうする事により、より合理的で必然的な空間が現れるのではないかと考える。
もしかしたら、垂直な壁、水平なスラブ、直角の角度を持つ角、これらは全て、空間を形成する上で障害となる意識と感覚と、間違った秩序(権力)に起因するものなのかもしれない。
20060315/宮田聡夫
光の空間/SPIN2
「カタチ」を形成するものは、影である。と言うよりは、「カタチ」を顕在化させるものが影なのである。我々の眼の網膜に移し出されるのは紛れもなく光である。しかし、光は目には見えない。目に見えるもの、つまりそれが影である。
100%の光、もしくは白というものは存在しない。と言うよりは目には認識されない。そう言う意味で、物理的には存在しないことになる。100%の暗闇というものもまた、目には見えない。つまり、光と影は究極のところでは同意なのである。
通常は、空間を仕切る・遮るといった場合には壁が用意される。風景に影を重ねているのである。しかし、光(風景)に光を当てる、もしくは強烈な光源を挿入する。そうすることによって、風景を消せるのではないかと考えた。その為に使うものは光なので、そこには何も存在しない。一見、矛盾する内容ではあるが、究極の光と影が隣り合わせのものであるならば、十分に可能なことである。
「光の空間」とは、そんな形態の存在しない領域を形成する為の概念ではあるが、空間構成の手法ではない。究極の「光の空間」は概念上の空間でしかなくなる。つまり、「光の空間」とは、形態による空間の、存在形態を生成する為の新たな領域もしくは関係性を派生させる空間であると考える。
20050801/宮田聡夫
関係性の関係/H2A
空間とは、関係性の連続であり、そのシーケンスである。建築とは、その場の質を変質させ、新たに挿入される機能(用途)との関係性を生む装置であると考える。それと、これは嗜好によるものであろうが、それは寡黙な方がいい。饒舌な建築ほど、目障りなものはない。これはまた、人でもしかり。
最も単純な関係性の形成は「繋ぐ」ことである。場が連続していること、手が触れられること、吐息や鼓動が伝わることである。また、電話や手紙も「繋ぐ」手段である。しかしこれらは、障害物が発生することにより途切れてしまう、非常に危ういものである。
建築は、何十年とそこに存在し、その利用者や環境、用途などめまぐるしい変化に晒される。つまり、そんな予想の出来ない環境の中で成立する関係性が求められる。そこで成立する関係性こそが、「建築」の手法でなければならない。
「記憶」もまた、繋ぐ手段である。これは物理的な障害によって途切れることはない。むしろ、障害によってこそ顕在化されるものであったりする。ここで、「建築」の手法となるものは「記憶」ではない。「障害」である。
ここでの障害は「壁」である。この障害により生まれる「壁の向こうには何があるのかという、創造力」、「壁を壊して向こうに行きたいという、反発力」そんなものが、強力な関係性を生む。そして、その壁に開けられた1本のスリットが、障害による緊張間を緩和させる「隙」を作る。「隙」のない空間は、その存在自体が自滅する。
全て、人のもつ向上心や進化の元をなす欲求であり、これがなくなるまでは、その関係性は持続する。そして、その存在がなくなる時は、同時に、人の存在もなくなる時である。
20050720/宮田聡夫
表装の可能性/TOMY
建築とは、空間の持つダイナミズムであり、そのシーケンスである。ディテールや仕上げは、その空間をより○○に増幅したり、ピリリと薬味の効いた空間にする。ならば、空間のボリュームや構成といったシルエットを限定された内装デザインというものはどういうことか。
例えば、建物全体の内装であったり、建物の意味付けを求められる内装であれば理解は簡単である。ただ、よく言われる内装デザインはそうではないことが多い。ディスプレイでありデコレーションの域を出ない意識しかない。
与えられる空間は決まっている。それを大きくしたり小さくしたり、変形させることは許されない。その壁や床そのものをさわることも許されない。全てはその内側の世界である。
相手は茶碗に盛られた白い飯。それを塩やコショウや薬味のみで調理する。しかもその飯は少し硬くなって変色しかかっている。見た目をキレイにするのは簡単である。赤や黄色の合成着色料タップリの粉を飯が見えなくなるくらいにまぶしてやればいい。でもそれでうまいのか?ならば、ネギやタマゴをまぜてチャーハンにしてやればいい。見た目は貧相でもおいしく食せるはずである。もし飯が腐っていれば、いっそのこと捨ててしまうしかない。お金があれば、その器に合った中身を盛り付ければいいし、なければ器のみで勝負するしかない。
ここで行っていることは、空間の内皮を最も安い面材であるOSBで包んでいるだけである。手法としては単なる表装のデコレーションである。ただ、全てを包み込むことで、その空間の質を変えることは可能なのではないかと思う。結果としては表装のデザインでしかないのだが、個々のデザインの集合体としてのごまかしではなく、空間そのものを変質させる可能性はあるのではないかと考える。
20040329/宮田聡夫
想像する建築/MH-HOUSE
計画中の建築のことではない。ましてや「建築が」何かを想像するわけでもない。
フィクションや空想世界が氾濫する昨今、とは言えそこにあるものはバーチャルな世界でしかない。さらに、それらの世界は現実に私たちの目の前にビジュアルとして出現する。
「オバケ」というものは、我々の想像によって出現した存在である。しかしそれは単なるフィクションの存在と言う訳ではない。漆黒の暗闇に対する不安、自然現象の偉大さに対する敬服と自戒の念、そんなものの現れである。さらに、その想像力は空間に対しても影響を与える。
町の小さな森林が、とてつもなく広く感じたり、どこまでもどこまでも続いていくように感じたり。それは理解や概念といったものではなく、我々の意識に直接働きかける。
身体感覚と言うものは、物理的な現象だけではなく、感覚に大きく左右されることは一般によく知られていることである。錯覚や錯視といったものがそうである。と、するならば、「想像する」ということは、空間構成を左右するモノと考えられる。そしてそれは人間の持つ偉大な能力の一つである。人は「想像」することにより「創造」を可能とする。
トラディショナルな空間には「想像」が溢れていた。しかし現代、特に都市建築においては、もはや「想像」など許される余地もなく、現状はバーチャルな世界を演出することだけに必死になっている。
想像する建築とは、「遮ること」と「閉じないこと」である。
圧倒的な否定は、より強固な関係性を生む。見えそうで見えない、少し見える、何かがある、透けている、気配云々。
そして、完結しないと言うこと。スキを作ると言うこと。
人の想像力に限界がないように、想像する建築にも限界はない。人を包み込む空間とは、そういう空間でなければならない。
20030929/宮田聡夫
試行錯誤/空間について
最近、住宅の設計をしていて感じていること。
家族のあり方や、空間のあり方。素材の選定やその意味付けなどは多くの解釈や考え方がある。それぞれについて、その是非というものは語れない。それは単純に言ってしまえば好みであり個性であり、主張であるからである。
私は空間と言うものは余分なものは殺ぎ落とし、究極なまでのプリミティブな形態にまで持ち込むことがそのダイナミズムであり空間性を最大限に生かす方法だと思っている。その前提となっている考えは、「空間」=「生活」ではないと言うことである。空間に人であり、テクノロジーであり、その他様々なものが合わさり、それぞれ住宅や店舗になっていくのだと思う。そこには、住み手の好みが入れば良い。そしてそれを寛容に受け止めるものが空間である。
建築家とは生活を作るわけではない。私はその空間を作るのが使命だと思っている。つまり住宅を作るのならば、それは建築家と施主の共同作業なのである。それは、客と設計者という関係ではなく、空間を作る建築家と生活を作る施主との共同作業なのである。空間が生活を支配するのではなく、生活が空間を支配するのでもない関係性が必要となってくる。
空間から余分なものを殺ぎ落としていくと必然的にストイックな表情になっていくことがある。基本的にそういう空間は好きなのだが、その時にそこを空間として成立させるには、どこかにルーズさを兼ね備えていなければならないと思う。それには、ミニマムな空間をルーズな関係で繋いでいく手法と、空間のどこかにひとつルーズな空間を挿入するという手法がある。いずれにしても、それはその空間に生活が挿入されることにより見えなくなっているものであるが、それこそが建築なのだと思う。
最近そんなことを考えながら設計をしている。
20020425/宮田聡夫
均質化された空間/Na-HOUSE
古来、集住の状態としての集落(聚落)とは人の生活をもとに形成つけられてきた。しかし、人が増え物が増えその呼び名が街と呼ばれ出す頃から、その場は行政が管理しやすい形態へと変わっていく。均質化されたサービスと均質化された街並み、文化財はショウケースに入れられ、どこに行っても同じ空間が広がるようになる。更に高度な経済成長の産物として大量生産されたモノが世にあふれ、人の生活までもが均質化されてくることになる。それならば、非常にプリミティブな生活に戻れるかと言うと、この物質経済の中それは単なる反動行為の域を出ることは出来ないだろう。
マクロな環境の中でその状況に異を唱えることは別な政治的行為につながるだけであり、また違う均質化を生むだけで、そのことは個々の人生観や価値観に委ねることにして、もっとミクロな状況下では少し違った見方ができそうな気がする。
最も小さい集住の環境とは家族である。人類古代からその関係は存在し、また現在家族や住居というものの崩壊が叫ばれているが、依然として家族は存在し多分将来もなくなることはない。
家族と言えば夫婦がいて子供が二人くらいいて、なんとなくその子供は中学生や高校生、みたいなものが一般的だろうが、子供が大人になっても家族と言うことには変わらない。そういう状況に出会うと、家族の本質と言うものが少し見え隠れしてくる。
子供はそれぞれ仕事を持ち、経済的には自立している。共にとる食事もそんなにはないだろうし、顔を合わさない日も少なくない。しかし確実に同じ屋根の下に暮らしている。個々のプライバシーが最大限に求められるが、トイレ・風呂、キッチン共用の集合住宅になるかと言えばそうはならない。
そこで空間を極限まで均質化させていく。個々の空間を均質に最大限にとり、必要な機能を付加する。そしてステレオタイプな家族像や住居形態というものを極限まで殺ぎ落としていく。
すると、そこにはエントランスから縦につながる一本の吹き抜けが現れた。
各居室はその吹き抜けに対し均等に南側に並び、機能諸室は北側に繋がる。その脇を縦に大きな機能的には意味のない空間が繋ぐ。
結果的にどこにも属さない空間が残ったのか、その空間が軸となって全体が構成されたのか。少なくともそれをイメージして空間を構成してはいない。
多分それは町屋や長屋の時代。隣近所が家族のような生活を送っていた頃の街並みの、町屋の裏に通った一本の背割りと呼ばれた空間のようなものだったのだろう。ここは基本的には排水溝であり、行政の町割の概念により形成されたものであるが、家族が町が機能せしめる最も人間臭い部分だと思う。
そんな人の「気配」というようなものが、本質的に許される空間が「住宅」と呼ばれる建築形態だと思う。
20020408/宮田聡夫
饒舌な白い箱/3.3CAFE
「寛容なる白い箱」とは、六本木アクシスビルのコンセプトである。
あくまで、人とモノを中心とした生活提案の場として様々なデザインを許容するまさしく寛容な場を狙ってのコンセプトである。
建築家とは様々な場においてニュートラルなデザインとして「スクウェア」や「白」という表現を好む傾向がある。ただ彼らがユニバーサルなデザインを狙っているわけでもなく、ましてはデザインレスな建築を目指している訳でもない。(口ではその様な表現はよく見かけるが)
それは彼らこそ表現者であるからである。表現者である場の定義者(建築家)の作った空間の中で表現者である生活者(施主であったり、店舗などではお客さん)が存在していくわけである。よほどの偶然か、強烈な主従関係が成立しなければ不幸な生活が始まることになる。
そこで、真っ白な四角い箱を作ってみた。平面は3.3mの3スパン、階高も3.3m。外壁の色はN9.5である。するとやはりそこには生活や表現を規定する強烈な表現物が現れた。そこには究極に寛容でない白い箱があった。
それは我々の意図した結果であり、またほとんどの建築家はそのような結果を知っている。それでもなお、建築家を不必要に饒舌にさせるのは悲しい社会現状の為だろう。
まだまだ日本では建築家という職業は社会権を持っていない。映画や小説で建築家が主人公になるなんて希なことである。
我々は一般の人たちよりも少し多くの空間の構成や表現を知っている。施主のイメージした空間を表現するだけなら×××にでも頼めば良い。我々が仕事としてやる以上、施主のイメージ以上のものを表現する義務があるはずである。しかし自分の経験やイメージが出来ないものへの施主の拒否反応は並大抵のものではない。そこで、建築家は確信犯的な行動に出る。(希にそれは本当の犯罪になることもあるが)
その結果は・・・、もう建築家としての職能とかではなく、人としての資質に起因するものだと思う。
建築家はやはり表現者であり、その表現者が表現物以外のものを口にしなくても良い社会がくれば・・・、果たしてそれは気持ちの良い状態なのだろうか。
20010802/宮田聡夫
光の都市/JNGM
ひとつの建物を設計するという行為により、どのような変化が周辺環境に及ぼすことが可能だろうか。あるいは、ひとつの建物を設計することにより、都市をどのように変化させることができるのだろうか。
建物は、敷地から切り離すことは基本的に不可能であると考えられる。例えば、その敷地形状は、そこに建物形状をうみだす非常に大きな要因となる。しかし、導き出される建物形状は、敷地の各要素をどのように解釈するかによって、異なる結果となる。それゆえ、都市には様々な意匠が混在する自由度が保証されている。一方、その自由な都市の表層は、共通の言語(視覚的要素)を見出すことが困難である。
光をもとに、建物や都市を組み立てることができないだろうか。幅―奥行―高さ これらは、次元を置換えれば全て厚みとみなすことができる。全ての物質は光を透過し、反射する。そこでは、光自体が物質化する。その光を組み立てることにより、建物ひいては都市をつくりだすことこそが、新しい空間を生みだす手立てとなるはずだ。
20001020/牧島哲郎
表現の構成/HAIR WORKS SPIN
建築家とはなかなか微妙な存在である。
元来、日本には建築家という職業は存在しなかった。明治の時代に国の方針により西欧より導入された存在である。
しかし日本にも古来より素晴らしい建築は多数存在するし、その価値は世界的にも認められている。当時、今で言う建築家とは存在しなかった。その時の棟梁と今の建築家とはそもそも存在が違う。
西欧料理はソースの文化と言われ、日本料理は素材の文化と言われる。モダニズム以降、表現の手法は多く語られているが、その多くはソースの表現である。いかに素材を引き立てるソースをつくるか、が建築家の命題でもあった。当然ながら日本建築の素材とは木でも瓦でも紙でもない。
ローコスト建築と騒がれ始めてそれなりの時間がたつ。それは経済事情に所以するものではあるが、無駄なものを殺ぎ落とし極限まで機能を制限していくと、そこに建築の建築たる所以が見えてくることがある。あくまでも建築とは領域を形成する装置であり、そこに空間を生成するための一要素である。その空間は多くの関係性により形成されるもので、時間をかけて熟成されていくものである。
至れり尽せりの環境はさまざまなテクノロジーが可能にしてくれる。便利な機能はさまざまな知恵によって可能になる。建築はそれらの全てを寛容にして厳選して受け止めるものでなければならない。
高度に発達したTVゲームよりもルールの少ないゲームのほうが、その領域に挿入された意識ははるかに高度にその存在を発揮する。建築とは、そんな領域への場の生成であり、建築家とは、そんな最小限の最初のルールの定義者であるものかもしれない。
その為の素材として、現在は一次産業生成品だけにはとどまらない。二次産業生成品もとうに素材としての役割を担っている。更に、その次の素材もそろそろ状況としては成熟しつつある。それらの素材をいかに最小限のルールでもって場に存在さしめるか。その表現の構成そのものが建築というものではないか。
20000920/宮田聡夫
非領域空間/N-HOUSE
形体の形成のプロセスには大きく分けて2つある。
圧倒的な他者を挿入するプロセスと、圧倒的な無を形成するプロセスである。
本来、建築とは圧倒的な影響力を与えるモノである。社会的意味等もあるが、なによりもデカイ。大きいということは、いやでもヒトの目に入る。また、そのものの中に入れるという表現物の中でも希な存在である。つまりどうやっても圧倒的な力を持ってしまう。
元来、建築とはそういう性格を孕み、またそういう力を背景に形成されてきた。しかし、現在の都市における状況は違う場を晒している。
場<敷地>の持つ力とは、本来自然であったり歴史であったり風土であったり、そのような大地の力と同意のものである。しかし現在の都市、特に東京という場において大地の気脈がどれだけの圧倒的なバックグラウンドとして存在するのか。それは、人口一千万人を超えると言うメガロポリス所以たる理由だけではない。
そもそも、東京<江戸>とは行政が形成した街である。それ以前のネイティブな江戸というものも当然あったことだろうが、現在の東京に通じるものは行政都市としてつくられた江戸以外のなにものでもない。
江戸形成から約400年。現在の東京の大地の力としての場は既に覆い尽くされて、新たな人為的な場がヒトの力によって形成された特異な場、それがTOKYOである。しかも、圧倒的な経済活動の末に人為的な気脈すらビルの谷間に見え隠れしている。
都市建築の手法として「囲い込み」というものがある。無秩序な都市から隔離し自らの場を完結させるとういものである。完結された場を形成するあまりに都市に対して無表情という表情を作ろうとする。すると、魂胆ありありの無表情が街に鎮座することになる。
建築とは、領域<FIELD>を形成する装置である。それ自体を無に返すことはありえない。形体としての無、もしくは無表情とは何の意味も持たない。つまり、無の形体とはその場の存在理由をあからさまに晒す領域を素直に認めるということである。
領域とは、その場のみで完結するものではない。多くのアクティビティーや思惑を孕んだ固体の関係性の中で形成される存在である。
また、建築とは新たな領域を形成させるものでもない。緩やかな関係性の連続の中で、その場に意識を吹き込むヒトの為の領域の関係性を素直に晒す存在でなければならない。
20000910/宮田聡夫
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