12月 年賀状を作っています。 そこで、今年一年の仕事を掻き集めてみました。 すると、出る出るこんなに。まるで、年末の大掃除のごとく奥から奥からいろんなデータが出てきます。 データには保存された日付が自動的に記録されますので、その作業をしていたのかが一目瞭然です。でも結構それは僕たちの記憶とはズレてたりします。 建築とは小さな住宅でも、順調に進んで一年はかかります。大体は何やかんやで一年半から二年なんてよくある話です。途中で止まったり、 直前で流れたり、でもまた動き出したり。 良くない話ですが、同時に進行中のプロジェクトでは、こっちで決めていたことを、別のプロジェクトでのことと勘違いしてたり、何てこともあったりする始末。 まぁ、同じ人間が考えて決めていることですから、そんなに大事にはならないんですけれども。 でも、こうやって冷静に自分たちの仕事を振り返ってみると、そうした共通性や、 そう、僕たちが一体何を考えて建築をやっているのかということを考える良い時間となります。 ただ、年賀状はいつまでたっても完成しないという事態に陥ってしまいますが、まぁそれもまた良し? |
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11月 ある建築雑誌の取材を受けました。まぁ、テーマはあったのですが、終始それとは違う話題で3時間くらい話し込んでしまいました。 編集者は建築の専門家ではありません。というよりも素人です。しかし、編集という立場から客観的に多くの物事に客観的に接しています。 僕たちが普段話をする相手は、だいたい同業者か各種専門家、あとは具体的な利害に直面する施主です。 すると、僕たちも何らかの思惑を含んだ恣意的な話がベースとなります。そう考えると以外に何者にもとらわれることなく建築を語れる場というものは少ないものです。 同業者との話となると意外と、自分の立ち位置であるとか相手との差別化等の思惑が生れ、非常に不自由な場合が多々あります。 純粋な友人となると、終始バカ話に終わってしまいます。 情熱や理想といったものは、大いに感情に支配される話題です。 そんなものから開放されて、あるいは非常に単純な欲求を顕在化させられる時間が、その3時間だったような気がします。 そう考えると、普段から非常に疲れているんだなぁと思うのですが、3時間話し続けると、これはこれで大変疲れてしまうものです。 |
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10月 ノーベル賞とは、誰がその理論やシステムを証明したり完成させたかということよりも、その発見を的確に予測したかという点に焦点が当てられているそうです。 つまり、完成レベルを100とした場合、0.1のレベルの理論を100のレベルに持っていった人よりも0から0.1のレベルに持っていった人にノーベル賞は贈られるそうです。 確かに、0.1のレベルを100にまで持っていく苦労と努力は計り知れないものがあると思います。 それは、0から0.1のレベルの行為に比べてもその功績は称えられるものでしょう。 でも、その意味を考えると、それらの決定的な違いは容易に想像できることでしょう。 昨今の不況と呼ばれる状況の中、誰もが既存の100のレベルを守ろうとします。それがいくら目減りしていく状況の中でも必死で守ろうとします。 既存の社会は誰も、口では言っても実際に0.1の価値を認めようとはしません。 それは、既存の社会とは既得権益を守るために存在しているのだから仕方ないとは言えますが、あまりにも悲しい状況です。 僕たちの仕事は0.1を創る仕事だと思っています。実際はなかなかそうはうまく行きませんが、それでも0.1を創るために必死でやっています。 そんなことを改めて感じさせられたノーベル賞受賞のニュースでした。おめでとうございます。 |
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9月 急にこんなことを思い、友人たちに一斉にメールをしました。 ケンチクノチカラ 最近、フッとこんなことを考えました。 例えば音楽ならば、ある音楽に触れることで元気になったり、悲しくなったり、いろんなことを思い出したり、そんなダイレクトに感情に訴えてくることがあります。 それは、その音楽の絶対的な作用ではなく、いろんな状況が重なり合ってのことでしょうが、多くのことは、音楽のチカラだと思います。 例えば映画なら、思わず涙を流したり、ブルースリーになりきってしまったり。例えば小説や言葉なら、何度も繰り返し言葉を読み返したり、 座右の銘なんてのもあったりして。 じゃぁ、建築のチカラっていったいなんなんでしょう。 建築は社会や文化を育てるなんていうこともあります。心象風景や精神の確立に影響しているかもしれません。 そもそも純粋芸術とは社会的な存在意味は違うのかもしれませんが、それでも、もっと何かピュアなそんなものがあるはずだと思います。 ケンチクノチカラってなんなんでしょう。 その帰ってきた答えに僕はいろいろと勇気付けられました。また機会があればご紹介します。 |
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8月 最近、建築とは全く関係のない人たちと、ある電化製品の機能やデザインについて語り合う機会がありました。 全体の感想としては、ハッキリと言ってある種のカルチャーショックのようなものを感じました。 僕は常々、そのデザインというものを最優先に考えます。少なくともカッコイイと思えないものは、いくら必要なものでも手元には置いておきたくないと思います。 ここで言うカッコイイということは、何もフォルムのカッコ良さではありません。そのものの持つ性格のカッコ良さとでもいうもでしょうか。 例えば、肉体労働をしている人は作業服を着て汗をかいている時が一番カッコ良いと思います。誰もがアルマーニもスーツを着ているときがカッコ良いとは思いません。 機能の持つカッコ良さ、性格の持つカッコ良さ。そういうものって結構その場では理解されませんでした。 それ以上に、メーカーの都合でも押し付けデザイン(全てがそうとは言えませんが)に疑問を持っている人は全くいませんでした。 でも、そういう人たちが世の中の多数派なんでしょうかねぇ。 |
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7月 仕事で、某○○公団と関わることがありました。基本的には役所みたいなものなので何も期待できないとは思っていましたが、・・・。 ここ数年の中で最大の怒りと憤りを感じました。もう、全てを記すと一応ココもパブリックな場なので名誉何たらで問題がありそうなので控えておきますが、 あまりにもヒドイ。 考えていることは自分たちの保身のみ。客(一応私は客の代理人という立場)の利益や立場なんて全く考えない。 前例が無ければ何もしない。彼らの言っている理論も、よく見ていけば自分たちのために作っている理論で、最終的には「公団ではそう決まっている」と言ってきやがります。 自分たちで自分たちのために決めた社内規定を客に押し付けているってことです。 更には、難解な文章のパンフレットを渡して客には説明済みとして(口頭では説明しない)、僕たちがその事実を知った時にはもう契約済みという始末。 土地に関する重要な資料を出せといっても、「ない」と答えるし、執拗に要求して出てきた資料も(執拗に食い下がるとないと言っていた資料も出てくる)、 客には部数が少ないから渡していないというと言うし、・・・。 もうここでは書ききれません。この文章につじつまがあっていない部分や適切でない表現があるかもしれませんが、それは僕の怒りの現れです。ご了承ください。 PS、この翌日、某○○公団がとんでもない事実隠蔽をして土地を販売していたというニュースを新聞で見ました。 |
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6月 最近、雑誌等に文章を書く機会があります。そこで思うことは、僕たちがいつも感じていることを建築で表現することよりも難しいということです。 僕たちが常に考えている建築や空間、物質ということを、限られた文字数の中で伝えなければなりません。しかも、それを読む人たちは僕たちのことなんて何も知りません。 初めて会った人に数分で、僕たちが長い間考えていたことを伝えるなんてそもそも無理があります。 ある程度の割り切りとポイントを絞らなければならないのでしょうが、言いたいことは次から次へと出てきます。 それを詰め込むがゆえに、全体的にさらに難解な文章になって行ってしまいます。あぁ。 文章や写真で、建築を全て伝えることは出来ません。空間はやっぱり体で感じるものです。でも、実際にその建築を訪れることのできる人は限られています。 でも写真や文章は、雑誌や書籍、インターネットで世界中のどこにでも伝えることが出来ます。正直このチカラは凄いことです。 この建築とメディアの温度差を的確に判断していければ、僕たちの伝えたいものを更に伝えていくことができると感じています。 |
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5月 建築をやっていてつくずく思うことがあります。それは、僕たちはアイデアやデザインを売っているのではないのではないのかと言うことです。 もちろんそれは図面やプランといったものでもありません。 じゃぁ、僕たちの商品(チョットそぐわない言葉ですが、お金をもらうという関係上わかりやすい言葉だと思いますので)は何かというと、それは僕たち自身です。 別に人身売買しているわけではなく、まぁ時には、徹夜の連続で完全にこの身を奪われているという思いはありますが、最終的には人と人との出会いということです。 建築とはまだ存在しないモノに対して契約するという性格があります。僕たちにはモデルルームなんてありませんし、建築にサンプル品なんてのもありません。 作り続けていくものも、毎回違うものです。図面を描いたところでそれは単なる絵であって、それは建築ではありません。 つまり、どんなものが出来上がるかできるまでわからないのです。(建築家には見えているものですが) そんな関係を短くても一年くらい続けていくのです。そこに必要なものは「信頼」でしょう。 だから、僕はいつもこう言っています。「僕の建築を買ってもらうのではありません。僕を買っていただけるかどうかと言うことです。」 その為には、技術とセンスと、そして人間性を磨かなければならないことは言うまでもありません |
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4月 いくつかの現場が続けて竣工を向かえました。 設計から現場という流れの中で、それは苦痛と苦悩の連続です。ひとつ問題を解決すれば、新たにふたつくらいの問題が出てきます。それも解決すると更に・・・。 この循環は竣工まで続きます。つまり問題は増えつづけるばかりです。このいつまでも終わらない加速度的な連鎖の中でも竣工間際には一気に収束していきます。 それは多分タイムリミットという絶対的な要素により決められていくのだと思います。実際は工期延長や残工事といったことでそこまで明確ではありませんが、 やはり大きな区切りです。 そう考えると、僕たちはほとんどのことはタイムリミットという概念によって決められていっているような気がします。 だから、竣工時にはやるせない気持ちと脱力感に支配されることがあります。 でも、例えば工期が無限の計画があったとすれば、完璧な空間が出来上がるのでしょうか。 多分、永遠に終わらない現場になるような気がします。そしてそれが終わるのは、結局は僕たちの人生のタイムリミットを向かえた時なんでしょう。 |
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3月 設計料について考えてみたいと思います。 一般的な住宅(ほぼ4000万円くらい)で、設計料率は15%と日本建築士会は言っています。ほぼ600万円です。 間違いなく施主は「高い」と考えます。ならば10%なら良いのか、5%なら良いのか。でも施主は安ければ安いほど良いと言います。 そもそも設計料って・・・なんて発言も出てくる始末です。 と言うことで何となく10%が相場と言うことになっています。400万円です。 大体、住宅ですと計画開始から竣工まで1年ちょっとかかります。一般的な採算ラインはスタッフ一人の給料の3倍の売上げが必要と言われています。 給料ベースで作業量を考えると、14ヶ月で133万円(400万円/3)。月9.5万円です(133万円/14ヶ月)。 月給20万円のスタッフが自分の作業量の半分の手間を掛けられる程度です。 確認申請や見積り図作成時は事務所全体でそれにかかりっきりになりますし、工事終盤は現場につきっきりになります。 すると・・・、何だか長くなりそうなのでここら辺で終わりにしておきます。 でも、実際は施主の人柄とか考え方とかで、おもしろそうな仕事になりそうだったら、そんなこと関係なくなっちゃうんですけれども・・・。 |
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2月 先日、事務所の賃貸契約の更新がありました。つまりこの事務所に拠点をかまえて二年が経ちました。 一年前のコメントをのぞいて見ると・・・、今と大して変わってませんね。 多分、来年も同じなんでしょうけれども、僕たちの意識は確実に変わってきていると思います。良くも悪くも、 自身のこだわりや欲求が客観的に見られるようになってきたと思います。 それにとらわれ続けると単なる経験豊かな建築家になってしまうけれども、それを超えて更なる意識を高めていって・・・、 つまり安定したところで落ち着かず、常に走りつづけていきたいものです。 落ち着きがなく、いつもフラフラしていると言う人もいるけれども・・・。 |
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1月 あけましておめでとうございます。 振り返ってみるまでもなく、あっという間の一年でした。年のせいか、社会のせいか年々時間の流れが速くなってきているような気がします。 建築というものは、計画が始まってから竣工まで大体一年くらいかかります。以前からそのタイムラグの問題は取り沙汰されています。 一年経てばものの価値観や生活は十分に変わってしまう可能性があります。5年も経てばもはや今と同じなことのほうが少ないのではないでしょうか。 そう考えると、建築に求められるものと言うものも現在施主が言うような要望とはおのずと変わってくると思います。 そのことは、以前にも述べているのでここでは省略しますが、作る側も、建てる側も、 もう一度価値観と言うものを長いスパンで考え直してみる必要があるのではないでしょうか。 |
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